カウンター カウンター

砂古友久さんが楽書倶楽部に提供して下さった絵を集めました。


楽書倶楽部  第2号

 Liberdade 水彩

 リベルダーデらしい雰囲気を表現したいと思ってガルボン街を描いた。市のアウトドアー規制の条例が公布される前だったので、大きな看板が競う派手な色の東洋街を幸い絵には残すことができた。看板がなくなって、建物の外壁が目立つように変わったものの、矢張りガルボンの味があり、不思議な吸引力を持つ界隈だ。

 4〜50年前までは日本人街と呼んだが、韓国人と台湾人の強力な進出で、今では東洋人街と呼ばれる。       

 この界隈の数路では腕がのびたような派手な赤支柱に提灯風の街灯が三個吊り下げられ、これが何重にもなって眺められる。別の場所でもこの提灯のある東洋街を二枚描いた。合計三枚とも複製にしたのが、日系パレスホテルの各階に今もある。一枚は文化協会のビルに50年記念の大バナーがかかっいるのを描いたので、記念に文協に寄贈した。あと2枚は額込みで幅90センチもあり我が家で場所を取っているので、移民資料館に寄贈しようかと考えている。同じ画面を3枚とも30x40センチでも描いたのは、個展で皆お嫁入りした。


楽書倶楽部  第3号

 対岸ニテロイよりRIOを望む  水彩  35x50

 2006年、リオの美港展に招聘を受け二点出品した。このリオ遠山風景はその一点。リオの対岸ニテロイには海に突き出した大きな空飛ぶ円盤型の近代美術館がある。それに続くのが真っ白の砂浜のイカライ海岸で、二番目に弧を大きく切るのがサンフランシスコ海岸。後者の始点あたりからこの風景が眺められる。

  絵の中の左側にはリオ側のポンデアスーカル。如何に調整しても裾が隠れるのは仕方ない。 キリスト像のあるコルコバードは、手前の樹が憚って邪魔するので一本だけに減らし右端に残した。デルタ翼で若者たちが滑走して飛び発つので有名な頂上が平坦のガベアの岩山は、中央より一寸左寄りに、小さく遥か彼方に淡く映えていた。その頂上と両端の切り落としの魅惑的な稜線を省略するには忍び難く敢えて残したが、この印刷では判別できないと思う。 

 空を高く広々と取りたかったので、単純過ぎないために左上隅に、傘型に繁茂し日陰を提供する、海岸地方に多い葉群を覗かせた。この樹をアメンドエイラ、地方によってはカスタニェイラと言うらしい。  人間と犬、木陰に休む2人、それに遠方の船は目立つように赤く。 すべてはこの絵の雰囲気創りのため。写真家は出来ない絵描きの特権である。説明が多い絵は芸術でない、何を描いたか判らないような絵が良いと専門家に批評受けることが屡あるが、迎合してより上位の賞を得るために描く気にならないへそ曲がりだ。

 近頃は世話役なので無審査になり、ますます我流になる。  「砂古さんの絵は心が和む」といってくれるファンが多いので、その方がうんと有難い。 この絵の右にヨットクラブがあり、その傍に女房の親戚の家があるので、機会を得て描いた。


楽書倶楽部  第7号

 パライーゾ 水彩 40x60

 美しい桃色や紫の四旬節の樹「クワレズメイラ」と混生、互いに開花を競う「マナカダセーラ」は白、桃、紫へと変色しながらカルナバルからパスコア迄が最高。両方とも其の後なお咲き続け、いずれが四旬か間中やら。こんな景色がサンパウロ市内にもあります。 

 パライーゾのクバトン陸橋からです。松原ホテルの屋上からも見える感じです。左下は「23 de Maio」。 ギリシャ正教のドームの右にあった林立高層建築は絵のために除外。昔そこにはビール「Brahma」の大きな赤レンガ煙突が一本だけ聳えていました。

 聖堂に入るとイスラム教でないのにアラビア語が刻まれています。シリアやレバノン移民が建てたそうです。彼らが「Turco」と呼ばれるのは、第一次大戦で解体される前の広大だったオスマントルコ帝国の旅券で入国したためだと、レバノン二世に教えられました。


楽書倶楽部  第8号

 アクリマソン公園 水彩

 アクリマソン公園の池一周は1キロ。昨年中頃から、この木の辺り150メートル位が工事に仕切られて、一周り果たせなくなったのが恨めしい。この木を Figueira と人は言うが、果実Figo [ イチジク]の出来るFigueiraの木はもっと小さいから、これは Figueira Bravaに違いない。弓場農場でも見たし、Luzの公園には何本もある。

 イビラプエラ公園ではAv. Indianopolis側から入いると、東南アジアの国名を伴う複数のFigueiraがあるが、変わっている。分幹と呼称したいほど太い複数の枝があり、それぞれから下へ垂れ伸びた副幹が地に突っ込み、先端は吸水根となり、己が発生して来た巨大な枝の支えも果たしている。いずれも、幹や枝が馬鹿太く、根を盛り上がる程にまで張り巡らせているのが面白い。


楽書倶楽部  第9号

 パラチ 水彩

 Paraty は道路の中央が低いので面白い。それに鮮やかなプリマヴェーラが引き立ててくれて絵になった。この花は、日本を含め外国ではブーゲンビリアと言われる。

 日本軍が激戦を繰り返し、非壮な玉砕に終わったガダルカナル島の北方にも,同じ運命のブーゲンビル島がある。花名由来の島と思っていた。検索したら、フランス人探検家ブーゲンビルが島を発見し、花も彼がブラジルで発見したとある。


楽書倶楽部  第10号

 文協、サンジョアキン通り 水彩

 文協創立五〇周年記念のバナーも吊下がっているから数年前の水彩。
一興を添えるため、女の子と相乗りのMotoを真ん中に挿入してみた。 当時、文協はセアザの彼方かに移転説が広がり、トゥイン・ビルだったと思うが見取り図まで新聞に掲載された。 

 今の文協を絵に残そうと大小二枚に描いた。大は文協に寄贈、暫し公開展示された後日系美術館収蔵庫に収まっている。小は東北震災義捐展覧会に出品したら著名の弁護士さんに買って頂いた。この絵は他のガルボン風景二点とともに、大版複製にしてホテル日系パレスの各階にもある。 

 


楽書倶楽部  第11号 

 大西洋側RIO遠景(手前はニテロイ) アクリル画 70x100

 リオの名峰連山。右から、キリスト像が山頂にあるCorcovado、  Pão  de Açucar、  Pedra de Gávea、 最後の左は、二峰が重なって一つに見えるDois Irmões。リオ対岸のニテロイ側の山頂からのパノラマ中の遠景を主役にした。

 少し斜めにデンと横たわった眼下の真っ白な砂浜は、見応えがある大前景だったが、ホストを脅かすのでお引取り願った。  中景に前景役を兼ねてもらう構図で整え、敢えて夕刻の逆光暗色に抑えた。 空を茜色にデッチ上げ、大西洋もお付き合い。晴天真昼に撮った写真は空、山、海すべて紺色なので絵にならない。

 彼方の連山を主役にしたい一念がファンタジーに導いてくれ、 何とかなった。 長楕円で逆U形の派手な空中浮遊落下傘 PARA‐PENTEを吹き上げる風力利用で飛び立つ若者達の基点が此処。

 


楽書倶楽部  第12号

  弓場農場 水彩

 年末年始を弓場農場で過ごした。毎年ナタールと十二月三十日夜には音楽、バレー、芝居の総合公演がこの農場劇場で催される。泊り客、バス借り切りの日帰り来訪者を加えて八百席必要なので、この表紙裏の絵のように蜜柑色の雨よけが張られる。

 五十年間のバレー公演回数は農場内外と国外を含め九百回。その三分の一は外部公演の実績。観覧して、よくもこれだけのトップレベルに農作業の傍ら達せるものと芸術追求で人生を豊かにする努力に感激驚嘆する。

   広場の向こうに見えるのが800名収容の弓場劇場。手前は自家消費のための鶏豚処理場。

 


楽書倶楽部  第13号

  ベルチオーガ 水彩

 98年に描いた水彩。グアルジャーへ渡るバルサ乗り場の右側に並ぶ魚市場を通り越すとこの風景が眺められた。 

 先日久しぶりに写生に訪れたら、この入江がそっくり埋め立てられ、公園に変貌。 中景に描いてある屋外の船修理場も消滅。期待していたこの修理場に入り込んでの画材探索が楽しめなかった。


楽書倶楽部  第14号

  Paraty 水彩

 パラティの歴史保存観光地区に沿って海に向かう川がある。その橋から海岸山脈側を望むのが、この景色。遠景の真ん中で峻厳な勾配を作る稜線が絵を助けてくれる。

 左半分の低い山上には、岩風呂などが楽しめるCunhaのHotel Fazenda UEMURAがある。裏山へ登るとParatyが見下ろせて,この高い山の裏側が眼の前にあったのを思い出し、愛着を感じて描けた。 


楽書倶楽部  第15号

 パライーゾの「正教会」 アクリル画 50x40

 サンパウロの Paraiso区にあるギリシャ正教の聖堂です。 レバノンやシリア移民が作ったものです。 この移民は日本人より30年程前の19世紀末に始まり、支配国のオスマントルコの旅券で入国したのでTurcoと呼ばれていました。

 彼らが商売熱心で吝嗇家も多いので、ブラジル人が卑下して呼称する響きも感じられましたが、最近は耳にしなくなった感じです。トルコのギリシャ正教に改宗していた彼らが建設したこの聖堂の丸いドームの内側には自国語のアラビア語が書いてあるそうです。


楽書倶楽部  第17号

 リオ遠景 アクリル画 70x100

 グアナバラ湾を前にする眼下の海岸は、画面を超えて右に伸びます。その辺りに親族が住むので、楽書倶楽部に掲載頂くリオ風景は3号と11号に続き3回目ですが、今回もニテロイ側から描いたものです。飛沫を上げて海面を高速で滑走するようにリオと往復するフェリーのターミナルもこの海岸にあり夕景に興をそえるので、あえて残しました。


楽書倶楽部  第19号

アルジャーゴルフ場 水彩 

 表紙の縮小した水彩は、サンパウロから東100キロのアルジャゴルフ場です。赤い花が景色を助けます。でも毒があるとかで鳥は寄り付かないと聞きます。若し昆虫も寄り付かなかったら雌蕊と雄蕊はどうするのでしょうかね? 火炎樹とか鳳凰木と呼ばれるが同じだとも、いや別だという人もいます。詩人は使い分けするそうです。「ラン」を投稿された野口さん、本当を教えて下さい。

 61年前ですが、リオのパケタ島では古風な黒塗りの観光馬車で一巡し、珍しいと言われる黄色の同じ花を咲かせた複数の樹に出会いました。

  サンパウロの市内でも赤いのをたまに見かけます。遠目には美しいですが、散乱した落花の残骸と呼びたい姿は、哀れというより花弁が大きいのでグロテスクな感じ。そう思いませんか?                          


サントスの港ー1 アクリル画 70x100

 2008年の移民100年祭を記念して、前倒しの2007年にサンパウロ彫刻美術館より、絵画展開催の協力提供があり、日系の画家達が招聘されました。この絵はこれが縁で、絵画蒐集で著名なツニブラ旅行社の社長の赤川コレクション入りとなりました。

 赤川社長は翌2008年に神戸美術館に、世界的に有名な故間部画伯やパリ〜リオで高齢ながら今も活躍するFlavio Shiro Tanaka、故高岡画伯、国際的に知られる若林画伯その他合わせて約80点の コレクション全部を寄贈され、この絵も私個人では実現不可能な日本の美術館収蔵に同行しました。

 赤川コレクションとしてはこの記念贈呈をすでに意図して、移民の原点、サントスの絵を選んだものかと、想像しております。贈呈されたコレクションは同美術館で3か月間、「ブラジル日系画家の系譜」と題して展示され、地方の美術館、特に日系就労地域への巡回展に参加と、その後の報に接しております。


サントスの港ー2 アクリル画 80x100

 

 前の3艘の小舟が買い上げられたので、2008年の文化協会での記念展に描いた、替わりの姉妹作です。

 キャンバスの大きさを10センチ高く80センチにしました。4艘で描き始めたのですが、10センチ増えたために4艘のメインの前景と遠景との間が開きすぎ、埋め合わせに黒人を取り入れ、長い棒を持たせました。

 この場所は、サントスに通勤するグアルジャ側の小舟発着場で、笠戸丸係留のM番倉庫の正面対岸です。戦後の移民船もKLMに着岸したが、あの倉庫はもうありません。


 サントスの港ー3 アクリル画 80x100

 

 前に掲載の、通勤小舟発着所をもう一枚描きました。これはグアルジャー側の背景を右半分に取り入れたものです。

 移民100年祭を前にして2006・7年ころジャバクアラからバスで何回も日帰りで取材に下りました。港の入口にあるグアルジャーに車も運ぶ大型フェリー発着場のあるPonta da Praia行きに乗り、援協の厚生ホーム辺りで下車し、ホームの裏2/300メートルの発着所から小舟に乗ります。20人近く乗せて頻繁に出発します。

 暗くて淀んだ潮の臭いのする、トラック運送道路下の水路を幾つもくぐってMとN番倉庫の間から、停泊貨物船の大きなお尻を見上げながら海に出ます。10分でグアルジャに到着。 改札口が小人数の小舟の往来に合わせて開閉するので、スケッチが出来ないのは勿論、桟橋でモタモタ出来ません。其の間、後ろ向きや横向きに歩きながらカメラのシャッターを切るのです。30艘近い小舟が重なりあって無造作に係留されています。其の重なりを整理削除して組み合わせし直し、描く構図を作りあげます。天候や時間による光線の問題もあり、何回も行きました。

 サントス側では料金なしで乗船、グアルジャー側でサントスへ帰る便に乗る時点で90センターヴォス払いました。  同額をグアルージャ―で払ってD番倉庫辺りの税関広場と斜めに結ぶ、車は運ばない小型フェリー往復も好奇心で試乗しました。両方にタダ同然で乗ると、有料の港内観光帆舟並みの行程が回れます。

 サントス側の発着点には旧市街の市場があり一寸した商店街が続き、マーマーのポルキロレストランもありますが、子供のコソ泥やスリが多いと聞きます。 其の辺り
にパケタ―と言う墓地があり、笠戸丸前に着伯した通訳5人男の一人、峯さんのお墓が保存されていると新聞で読みました。

 


 サントスの港-4 アクリル画 80x100

 

 サントスは大陸に囲まれ、橋で繋がった島です。同じく別の橋でつながったグアルジャーの島がサントスの島を大西洋から隔てており、 サントス港への防波堤の役割を果たしています。 この絵も移民100年祭に向けて描いたものです。  白い要塞のあるグアルジャーを対岸とした、笠戸丸も通過したサントス港の入口に相当する、Ponta da Praia です。この絵の奥300メートル辺りにグアルジャーへの車ごと運ぶフェリー発着点があり、絵より可成り手前には水族館があります。

 10年ほど前に文協美術館友の会グループで此処へ写生旅行をしました。昔はここの広い敷地に2階建ての大きなJangadeiroと称した高級レストランがあり、ワイングラスに皮むきの薄塩小エビで飾ったコクテルが珍しく最高でした。 雰囲気最高で何を注文しても全て味が良かったので、今は50台半ばの息子たちにも子供時代を思い出す語り草となっております。  幅1メーターの売れ難い絵で, グアルジャーの小舟2点に較べると味も薄いですが、3年前の個展で売れました。

 この絵の奥から手前に向かって反対に描いた水彩スケッチも、絵画が専門であった今は造形美術の大家の夫人に買って頂きました。 夫人達はいずれも2世の初老の方で、其の昔の思い出の場所だったのでしょう。今と違って昔の小旅行はサントス位でしたから。 当時、新婚旅行はセーラネグラが大半で、サントスに行った同僚もいました。今は外国。隔世の感です。

 


 サントスー大建造物の廃墟 アクリル画 80x100

↓現在のペレー市立記念館(写真)

 現在サントスの観光局となっている旧鉄道駅舎の真ん前に、四つの道路に囲まれた一画を占める、ペレー市立記念館がある。記念館の側面は港の@番倉庫にも面している。100数十年以上前に建てられた大建造物の廃墟を、外面は往時のまま復興し、内装は近代化し、出来上がったのは2・3年前らしいのを昨年確認して来た(写真参考)。  廃墟利用のペレー記念館設立計画は以前からあり、其の手始めの十年程まえに、廃墟を整理し始めた頃、文協美術館友の会で写生グループを引率した事がある。

 上の絵の幅1メートルの作品は、其の折のスケッチとその後戻って撮った写真を基にしたものである。  記念館はサントスのバスターミナル Valongoに近く、この地区をValongo と言う。Valongoは奴隷市場の意味らしく、逃亡奴隷をかくまったので有名な教会がサントス旧駅舎に隣接する。リオの古い地図にも地名Valongoがあると何かで読んだ。 展覧会向けに描いた絵は大きくて売れないで、アパートの場所を取る。ペレー記念館がこの絵の寄贈を受けないかな?と考えているが、OKが来ても額付きでは自家用車には大きすぎ、額無しでは受け取らないだろう…、 こんな身の周り整理を考える齢になった。

 絵にはSantosFと São PauloFのカミーザを着た子供二人を描いてあるのだが・・・。

 


 Pedra Azul -1 アクリル画 60x50

  エスピリットサント州の州立公園にあるPedra Azul(青い岩山)です。首都Vitoria から西に90キロ程です。

  2010年にSESCの4泊ツアーで行き、Vitoria隣接都市にあるSESCの大きなホテルを基点に、Vitoria市から彼方までの景観を見下ろす Vila velha のConvento de Penha、地域にある数々の美しい海岸や Tubarãoの鉄鉱石積出し港、週末にはヨーロッパ製のモダンな観光列車でこの Pedra Azulに行き、帰りは東ヨーロッパ移民が作った町々を訪ねました。


 Pedra Azul -2  アクリル画 50x60

 Pedra Azulの第2作です。山腹に抱えている有名なトカゲの奇岩が、光線の加減で、はっきり見られます。太古にあった地殻の激動や長年の自然風化を教えられるPedra Azulです。

 高さは海抜1822メーターですが、公園の案内人の話では、山自体は200メーター程の高さです。

 


 Pedra Azul -3  アクリル画 50x60

  Pedra Azulの第3作です。紹介させて頂いた二つの作品の裏側です。青い色は、この裏面では左端から別面に向かって微かに始まっているのが認められるだけです。 強い光線で山肌が明るく映えています。

 トカゲの奇岩も浮き出していて、青色がないものの、全体の色合いが良いのと、構図がよかったので、描きました。


エスピリット州Pancasの山 1 アクリル画 40x60

 エスピリトサント州の北方、首都ヴィトーリアから190キロの地点にPancasという町があり、500メートルを超すPedra de AgulhaやPedra de Cameloを始め、美しい奇岩が次々と、この町を囲んでいるのを以前から知る機会があり、BeloHorizonte からVitoriaまで美しいと聞く山間渓谷の景色を電車で12時間堪能して、更に5時間のバスで行きたい念願でした。

 しかし2010年のPedra Azulの山麓だけでもへばる体力なので断念し、インターネットで寫眞を探し、2014年に描きました。絵の右手前にはチャチな味気ない新材で建てた、小屋や家屋などが多くあったのが、画面に調和しないので、畑などにかえました。

 


エスピリット州Pancasの山 2 アクリル画 40x60

 Pancas の奇岩の一つです。遠方にも似た山が見えます。この地帯は2002年に国立公園に指定されました。住民達は国立公園内から退去しなければいけません。

 彼らは19世期後半、Dom Pedro II王妃の招聘で、今は存在しない東欧Pomerode国(ドイツ、ポーランドに併合)よりの移民後継家族です。各家族は肥沃な20/30アルケール無償供与の約束だったのが、与えられたのは不毛の零細地。多くがサンタカタリーナ州に脱出。サ州には現在Pomerodeの名前の市があります。

 残留の後継家族の今更の強制移転が問題になり、2008年に政府は国立公園名称を取り消し、Monumento Natural de Pontões Capixabasと変名し、居住権が保証された経緯があります。

 Pontões「多くの突起した岩山」の字の通り、奇岩山が多い地域ですが、余り知られていません。


 イペーローザ アクリル画 90x120 

 私の所属するメイリングリストの中に花咲爺グループもいます。日本にイペーを植える運動家達です。神戸の街中には何か所かで咲いているそうです。 サンタカタリナで一番寒いサンジョアキンで採れた種子を送って、関東地方でも越冬可能性を確認できた段階です。

 イぺーには黄色、桃色、白以外に緑迄あるそうですが、昨年このイペー運動に触発され、描いたのがこのIpê rosaです。イビラプエーラ公園にある大きな樹です。公園を囲む街道が樹の後ろを走るので、背景は若干の木と塀だけで、そのまま描いたら、行き詰まりで奥行きの無い絵になりました。味気が無いので、左から右端まで背景を描き直し、公園の広場らしい奥行のある景色にでっちあげたので、実際にあったものはイペーと池だけになりました。

 この絵の寫眞を撮ったあとで、自転車と乗っている人物もいれました。現代の風潮表現に犬3匹と携帯を手にした女性、人間はこの女性を含めて5人、後から描き入れた自転車小僧を含めると6人になりました。 今まで描いた中で最大幅の120センチですが、大きな木の満開の一色開花は変化が出し難く成功作になりませんでした。

 黄色のイペと紫のジャカランダでも昔満足がいかなかった思いがあります。

 


 Hospital Sta. Catarina アクリル画 80x100

 ブリガデイロ街に近いパライーゾのパウリスタ大通りにあるカトリック系の病院の本部(右)と祈祷堂(左)です。高層の真っ白な近代的病院そのものは祈祷堂の左に隣接します。   

 油絵具と同じように分厚くも描ける、壁塗りと同じ水性のアクリル絵の具です。乾きが早いので、下地の色と混ざらないで上に別の色を直ぐのせ易い利点があります。 大画家でもアクリルだけで終える人あり、下地をアクリルで早く済ませ、仕上げは油に拘る人もいます。上下を反対にすると、上塗りのアクリルは下塗りの油に馴染まないで剥離を招きます。

 この二つの古びた建物はかねがね描きたいと気になる存在でしたが、パウリィスタ大通と仕切る単調な低い塀と味気ない出入口が邪魔でした。斜め前にある、今も続くレフォルマ閉館の数年前のSESCの2階の図書館を利用した折にこのアングルを発見し、塀などを取り除けて描くことができました。  遠景を思い切って簡略化してみました。

 


MASP 美術館 アクリル画 80x100

 サンパウロを代表する風景のMUSEU DE ARTE DE SÃO PAULOで、頭文字をとって MASPと呼ばれる美術館です。地階から全階にわたる支えは4端に赤の巨大な柱があるだけなのが有名で、空洞の地階は週末には骨董品などを売る蚤の市に利用されています。更に地下にある2階の説明は略するとして、空洞地階の上にある一階と二階は60メーター位の長さがあると思われますが、4本の支柱のみで支えられているのが、地震国の建築家には羨望の建築様式です。

 長方形の両端の短辺2本間にそれぞれ強力な橋渡しを先ず作り、その右端橋と左端橋の間の長辺60メーター程を張り渡した何百本?かの鉄のワイヤーケーブルを締め上げて鉄筋とし、それにセメントを流し込んで各階を造った独創的技術に依ると聞いた事があります。  南半球では最大で、内容も最高で世界でも上位と聞きます。

 私が独身時代は未だ Rua 7 de abrilにありましたから、このMASPは50年代末頃に出来あがったものでしょう。戦後でヨーロッパ各国が疲弊仕切っていた頃、世界の名作を格安に大量手に入れたと聞きます。

 この私の絵は一般大衆に迎合するテーマであるため、絵葉書(cartão postal)式の売り絵だと専門家間では軽視され、この絵に前後して掲載のHospital Sta.Catarinaの方が高く評価されますが、Av.Paulistaのシリーズとして敢えて作製しました。 いずれも空を黄色に表現したのにお気付きですか?

 


 けしの花 アクリル画 50x60

 阿片の原料になるので、栽培は厳しく取り締まられているが、イビラプエーラ公園隣接の苗育成所に試植されていたので、描いた。油彩に近似するアクリル画。

 2013年の個展で Campos do Jordão の Hotel Toribaのオーナーに買って頂いた。

 


木漏れ日の公園 水彩 50x70

 これはフルサイズの水彩です。 もともと紙は人間が両手幅の木枠を揺すって作ったもので、自ずから一枚の紙には大きさに制限があり、幅1メートル少々と高さ75センチ程度のものが原寸です。水彩では この半切の75センチx約50センチをフルサイズと呼びます。 絵を額に入れる折に、絵より広い飾り枠紙が必要で、枠紙は原寸に頼るのも理由の一つと思います。

  風景はサンパウロのアクリマソン公園のユーカリ林です。 私はこの林の裏の高台にある20階建てのマンション13階に1980年より住んでおり、見下ろす公園が取り巻く広い池も眺められましたが、この林が繁茂して今は池が見えません。其の向こうには、アクリマソンの住宅街や林立するマンション、更に鉄塔の多いパライーゾやパウリスタ地区の遠景が広がります。 木漏れ日が気に入って描きました。サンパウロ文化協会の具象画展で1メートル半にも達する油彩の大作と競合して銀賞を貰いました。

銀賞の同じ公園を描いた姉妹画はサンパウロ州議会に収まっております。

 


嶮山  Agulhas Negras アクリル画 40x60

 山頂はリオ州所属だが、ミーナス州とサンパウロ州の3州合流点に近いです。

 Rioに車で行くと陸軍士官学校で有名なItatiaiaを通り、その左手の遠方に黒い稜線が見られます。海抜2791メーターの嶮山。名前もAgulhas Negras(黒い針束)と言います。ブラジルには高山が少なく、これを凌ぐのはアマゾン州北部に3000メーター前後のが2峰あるのみとか聞きます。

 ホテルまでは車で上れますが、国立公園内なので車輌運転禁止、遠距離を徒歩での接近は高齢者には無理で、このアングルは寫眞に依るものです。絵の左下も黒い岩石でしたが、画面全部が一色の黒だけでは絵にならないので、思い切って淡く変化を与え画面を救いました。これは2013年の個展で売却。

 


白い大砂丘 アクリル画 50x70

 ブラジル東北でも北寄りのマラニョン州にある広大な砂丘です。州都のサンルイス迄は飛行機で問題ないが、砂丘に至近の小都市Barreirinhas迄バスで数時間、そこから砂丘に到達するのに4輪駆動車で1時間、到達してからも高さ40メーターもある数々の砂丘を踏破するのは数年前すでに80才であった高齢の僕には至難で、この絵は寫眞によるものです。

 著名な風景画家の半田画伯が晩年にサンパウロを引き揚げ、近郊のアチバイアの娘さんの家に引きこもり花ばかり描いていたのを思いだします。砂丘の低地に表れる美しい緑や紺色の湖をみるには、10月から1月を避ける必要があると聞きます。

 寫眞の彼方は平坦であったので、高い砂丘をデッチ上げて変化を付け、水の色はトルコブルーを使って感じを出しました。

 


黄昏の大砂丘 アクリル画 70x120

 これもマラニョン州の広報資料の大きな写真の構図のまとまりの良い部分だけを切り取って、隠れた中景の水の部分をより多く引き出すために、自分の目線の位置を数メーター高めて描いたものです。

 中間色だけの、地味乍ら斬新な感じを狙った、幅120センチの作品です。

 


イグアスの滝 アクリル画 70x100

 イグアスの滝です。飛沫の中、現場で幅100センチの絵を描けるわけありませんが、一般売りの写真でなく、知人が冒険ボートから撮ったものからで、手前の滝と奥の滝の段差がそれだけ大きく出ていると思います。私自身観光したのは随分昔ですが、感激は覚えています。

 4・5年前に文化協会の文化祭りに出品しろと急に言われ、この大きさは普通一月以上かかるのですが、4日で仕上がりました。煙や雲のボカシが得意なので、飛沫の面積が多いのが助けになりました。

 水面に隠し味に紫を微量混入したのが、自分でよかったと思っております。

 


ガルボン街の入口 水彩 50x70

 このGalleriaのトップ掲載のガルボン街と同じ時期に描いた姉妹作品の水彩50x70です。今は明石の店もなく、池崎の大看板も市令で外され、スダメリス銀行も別名銀行に代わっています。

 これも30x40でも描き、売れましたが、フルサイズのこれは住まいのスペース取り迷惑で、移民資料館に引き取って貰うことを考えています。

 


 リベルダーデから見る大寺院 水彩 60x50

 サンパウロのSé大寺院をリベルダーデ側から見た絵です。

 画面外にあったサンパウロ設立450年の赤いハート型のロゴマークのあるキオスクを絵の中に取り入れました。今年はサンパウロ設立462年ですから12年前の2004の作となります。

 サンパウロ美術協会の450年記念展覧会がモルンビーの有名クラブで開かれ出品し、銀賞でした。


Sé大寺院ー2 水彩 50x70

 Sé広場と今は繋がった Clovis広場の端の方から眺めた大寺院の横姿です。昔はこの二つの広場の間に大きな建物があって仕切っていましたが、地下鉄を作るころ爆破崩壊され、名前は二つの一大広場となりました。

 Clovis側に地下鉄の駅の出入り口と段差があり噴水もある二つ池が作られています。多くの野外居住者も住み着いている場所です。

 


金婚記念のArrow Head(Ca) 水彩 28x45

 2008年7月の我々の金婚記念に、アメリカに住む次男と長女の2家族の手配で乾燥で有名なロスから150キロ程の、水と森がゆたかな高級別荘高原小都市の湖に面した山腹に大きな家を借りて、サンパウロから我々2人と長男家族が行き、合計12名が一週間を過ごしました。

 其の折に、描いたスケッチブック2枚に描いた水彩です。別にアングルを変えて3枚描き、息子たちに贈りました。

 カルフォルニア地帯で売られている水の殆どがArrow Headのぺットボトルらしいです。

 


カンポスのパラナ松 水彩

 Campos do Jordão のパラナ松です。雌松です。雌は美しい傘型、雄は葉群が円錐体です。サンパウロから200キロのこの高原都市カンポスは、夏は避暑地として冬は大規模な一月間にわたる音楽祭などイベント多く、ヨーロッパ風に寒さを楽しみに集まる人多く、ホテルは一杯になります。

 療養地としても有名です。義父が1980年ころ老人結核となりCamposのサナトーリオに入りました。入院生活に馴染まず、貸家も手ごろなのが見付からず、私がセカンドハウスを求めて、10年以上住んで貰い、よく通いました。

 其の頃描いた水彩です。別のCamposの水彩で文協展に入選しました。脱サラ以来彩管を取ったことなく、20年振りの応募でした。Camposは私の絵画生活の第二の原点と言えます。


RioのLeblonの海岸 水彩 30x40

 Rioの大西洋に面した海岸はCopacabana(6km)に始まって、新たな弧をえがく6qの海岸があり、それを4qのIpanema海岸と2qのLeblon海岸に、Rodrigo de Freitas湖の放水路が二分している。

 この絵の奥に見えるのは Dois Irmões(2人兄弟岩山)で麓にSherraton Hotelが見える。右の海岸通にも有名ホテルが並ぶ。60年以上前私が住んだ頃は、数える程少ない大邸宅と椰子の樹がポツリポツリと間をあけて存在していただけであった。

 岩山Dois Irmõesを過ぎると、先日想定外の怒涛が新設の自転車通路を崩壊し犠牲者を出した、数キロのSão Conrado海岸がある。其の先の、若者たちがパラグラで飛び立つ名峰Gaveaの岩山を右にして、続くは16qの Barra 大海岸。昔は彼方まで、家一軒ない草原と沼地だったのが高層建築で近代都市化し、目下オリンピック会場もこの地区で最後の泥縄の仕上げ中。

 


三種類の果物  アクリル画 40x50

 珍しく、静物を描きました。ザクロと葡萄とスターフルーツです。ザクロの
直径は12〜13センチほどでした。 日本でもこんな大きさだったでしょうか?

 


笠戸丸 アクリル画 70x100

 

 サントス港での笠戸丸の寫眞は岸壁上から船尾を撮った寫眞以外に残っていない。笠戸丸が係留された14番倉庫のMは戦後何回かの後発移民社員の出迎で親しんだマークKLMの一つ。 これを絵に残すには、左舷を海上から見るしかない。

 2006年に2度目來伯の、船舶研究者で笠戸丸に関して研究図書2冊の著者、宇佐美教授と知り合えた。氏はイギリスの造船所調査に3度目もの渡英で100年前の笠戸丸建造設計図を発見しておられたので、帰国後メールで送信して頂いた。

 船名だけが白地にポジで KAZAN とあるのは、建造当初はイギリスの船舶会社がボリビアのPOTOSIの名前で同地採掘の錫の大量運送のため発注建造中であったのを、ロシアの富裕都市kazanの市民の献金で、戦時に備え軍用船適応を考慮しての買い取りであったため、POTOSIのネガをKAZANのポジに切り替えた所以である。

 笠戸丸は6000トン。カザンの設計図を参考に描いたが、左後ろ海面から見上げる構想にしたので、船尾が誇張された。 埠頭から市内へ500メーター程引っ込んだ発着点からの通勤者用小舟で、MとNの間の水路を画材集めで通過する度に係留された外国船の高い船尾を上に見て、女性の巨大なお尻を見上げたような印象に依るもの。

 手前のボートには、当時世界に知られたTOGOを名付けた。マストの自然木や帆布の縫い目は、サントスにある100年前の海景画家ベネヂットカリスト美術館で参考。

 人工の近代建造物を歴史的に描くのは、自然物と異なり、絵になり難いと身に染みた。  

 文協の移民資料館に贈呈、収蔵。

 


アクリマソン公園の犬  水彩 50x70

 このGalleriaで紹介3度目の、アクリマソン公園です。2005年頃描きました。水彩のフルサイズです。今回は犬を4匹招き入れました。一匹はCampos do Jordãoの家で飼っていた、胴長のために「ソーセージ」とも言われるダックフントにしました。

 カンポス療養の義父義母をサンパウロの自宅に引き取るようになり、犬は聖市のアパート内規では飼育出来ず、カンポスの知人宅に譲りましたが、ある日泡を吐いて死亡したと知りました。病気に強いダックフントなので、カンポスに多い紫陽花の花を食べたものかと後ほど想像するようになりました。紫陽花の花は子供や小動物には危険な花の一つと知りました。


Rioが望めるNiteroiの海岸  水彩 38x54

  1983年、青木建設が関係したホテルシーザーパークに泊まって、リオとブリジッドバルド−滞在で有名になったBuziosなどを廻ろうと、友人の運転で2夫婦4人の旅行に出かけました。この友人とは1950年代前半にリオで同居した親友。滞在中に一日だけ別行動し、親しい遠縁の家族を訪ねリオ対岸のニテロイに渡った折描いた水彩です。              

 このGalleria Sunagoのトップから2番目と同じ海岸ですが、描いた10年程前はすでに開発されて、利用者で一杯の白浜に変貌していましたが、83年の当時は辺鄙な存在で雑草に覆われていました。

 文協展で佳作の初賞でした。

30年以上前に画用紙に描いた水彩なので、空に変色のシミがありますが、僕の好きな古い作品の一つなのでGalleriaに参加させていただきます


弓場劇場  水彩 30x40

 この Galleriaの12番目で、サンパウロから北西600キロのミランドポリスにある弓場農場の自家用鶏豚処理場の絵を紹介してもらいましたが、800人収容の劇場の絵も参加させて頂きます。

 コーヒー園のあった斜面に数十年前に自分達で建てたもので、舞台を見下ろせるようになっており、地面は白い砂で裸足になっても心地よくできております。

 


カカオの果実  40x50 アクリル画

 カカオの果実を描きました。チョコレートの原料はこの果実の黒い種です。

中の白い実の果汁は飲めますが、特におすすめする程のものではありません。

 稀にフェイラで売っている事があります。

 


サンパウロ法科大学 30x40 水彩

 

 僧院のようなサンパウロ法科大学です。2005年頃、日本の法律専門家7名を招聘してシンポジュームが開かれ、受け入れ責任の二宮弁護士より同大学の内部をいろいろの角度から描いた9枚の水彩の注文を受けました。

 これは二宮弁護士の所蔵となった一枚です。絵の中央奥に明るく目立った箇所があります。この存在は絵の色調均衡にふさわしくないと考えましたが、大学にとっては貴重なステンドグラスなので、尊重して残しました。二宮さんにしても在学中の思い出深いステンドだったでしょう。

 同弁護士は私の水彩を他に3点もっておられましたが、邦字新聞報道では、所蔵の他の絵描きさんの絵とともに10点ほど横浜の移民 記念館に寄贈されたとの事です。

 


サンパウロの Teatro Municipal 水彩 50x70

 パリーのオペラハウスを真似たとかの市立劇場です。若い頃はオペラ好きでシーズンの通し切符を手に入れて通いました。 近頃は難聴と深夜の帰路不安で没交渉です。

 この絵は北米の娘が Concerto de Meio Dia をここでピアノ演奏した記念に持ち帰ったので、奥山さんのトッパンプレスが発売したクリスマスカードで画像を見つけスキャンしました。

 幕間の休憩時間に多くの人が席を離れ、洒落たバーで一杯やり外気に触れに屋外に出るのを思い出し、20数名の人物を挿入しました。

 背景のビルの壁にサンパウロ450年祭のポスターの大判があるので、十数年前の作です。

 


Sé大寺院(正面より) 水彩 40x30

 

 知り合いの事務所が、大寺院の真正面にあるので、そこからの風景を利用させて貰いました。個展で売れたのか、映像を保存してなく、トッパンプレスで印刷した販売用のクリスマスカードからスキャンしました。

 


  Barでの自画像 油彩 100x80

 86年に自画像を初めて油彩で、しかもサイズも初めての1メートルの大判で、行き付けのBarを背景に3点描きましたが、全部落選しました。

 ギターを弾く男を取り入れた雰囲気が面白く出来た絵は娘が北米に持っていき、一番自分が見ても良くないのは処分、これは残った一点です。

 いずれも写真を撮り、常連の一人を自画像にすり替えたものです。自分の像はアパートのエレベーターに嵌め込みの全身サイズ鏡を利用し素描を重ねたのを作品に持ち込みしました。

 テニスをやっていた時代で、ブラジル東洋紡が盛業時代、同社が発売していたGrand smashの胸マーク入りのテニスウエアーを着用しています。

 


我が家からのサンパウロの夜景 油彩 100x80

 自画像油彩3点落選のとし86年に、絵具メーカーAcrylex社がMASP美術館と共催でサンパウロ市風景画を募集しました。条件は個展の無経験者。最終日に持参したら長蛇の応募者。私の受付番号は1800台でした。

 著名なMASPとあって2000名の応募があったと思います。入選予定は50名との事でしたが、予期せぬ応募者に、主催側は100名に入選者の枠を拡げ、僕のは入選には入りました。

 我が家から望むビジネスセンターのPaulista地区は、いまでは通信用の鉄塔が乱立していますが、当時目立つのはこの絵の塔だけでした。眼下の暗い部分はアクリマソンの公園です。

 


古い製粉所の遺跡 水彩 50x70

 左下端に83年作とある。サンパウロから約100キロの Campinas市郊外のVila Coposにサンパウロの第2国際空港が完成し、利用され始めた頃、往路のBandeirante高速道路32キロの地点右側に、この風変りな建物の遺跡が気になったので、描きに行った。

 地名をMonjolinhoと呼称するので、辞書を調べると、粗末な製粉所・水車小屋とある。玉蜀黍でも製粉していたものだろう。

 背後にはユーカリ林が果てしなく拡がる。 調べると大製紙会社 Klabinの所有と判明。文化協会の写生グループの日帰り旅行を計画し、Klabin社に電話で申し入れたが、火気による山火事を案じる理由で断られたのを思い出す。

 旧道 Anhanguera側から、この農場に入り、この風変りな遺跡にアクセスできたら面白い絵が出来ると思う。

 


サントスの Ponta da Praia のスケッチ 水彩 30x40

 この Galleria Sunago の初めの方で披露した幅1メーターのPonta da Praia はアトリエ作成ですが、この水彩のPonta da Praia は現場で描き上げたスケッチです。

 2008年の移民100年祭に備えて画材集めにサントスに往復を重ねていた頃の2006年に、文協の写生グループの日帰り旅行もPonta da Praiaへ案内し、その折の写生作です。

 2013年の個展で展示したら、モニュメント作成として著名で画家でもある豊田さんの夫人に買って頂きました。

 車で移動が自由になった今日では、行楽地選択には迷う程に増えましたが、中高年の方にとっては、サントスは若き頃楽しめた数少ない旧懐の場所であったためかと思っております。

 


PL Golf 水彩 15x20

 PLゴルフ場、アウトの3番、池越しのショートコースです。

 1990年台後半から2000年台前半の10年間程、クラブのゴルフ用品ショップに、水彩のミニ版を置いた事があります。

 コンペの景品や帰国者の記念品に売れました。

 


Rio の Itanhangá Golf 水彩 36x50

 リオに行った時、コパカバーナで画廊をやっていた旧知の長沢さんを訪ね、Itanhangáが外部者参観入場可能のオープン試合中なのを教えてもらい、この絵の画材を手に入れました。

 この絵の背景の味ある岩肌山の右側に(絵からはみ出て)、若者達がパラグラで飛び立つ更に奇岩のGaveaの山があります。これはPão de Açucarを初めとするリオ4大名峰の一つに数えられます。

 リオで一番古いゴルフクラブはGavea Golf で São Conradoにあります。私の古いリオ時代の話では、Gaveaはユダヤ人のクラブで排他的でブラジル人を会員として認めない。これに業を煮やしたVargas 大統領指南の対抗策としてItanhangáをつくらせたとか。

 戦後初代大使の君塚さんも、後続の駐在員もItanhangáでした。Rioの山下さん、今はどうですか?日本人でGaveaで会員の人いますか?今回のオリンピックで三つ目が出来たわけですね。

 

 


São Paulo Golf Club 水彩 36x50

 サンパウロ市内のサントアマーロにある、最古で名門のゴルフクラブである。東京銀行や三菱商事など一流進出企業の社長が歴代会員になっている。

 コース内に植えてある樹の手入れが凄いクラブ。鳳凰樹が気に入ったので描いた。自分が所属するアルジャのクラブが公式オープン試合を開催すると、相互利用協定で他の各クラブから来る出場者数だけ他所のクラブをアルジャ会員が利用できる。

 この相互協定で、私は優先的にこのクラブを選んだ。 理由は@近い。A平坦で歩き易い。B樹木が鑑賞風に手入れして枝振りがすばらしい。C食事、中でもシーザーサラダが美味い。

 


Club de Campo de São Paulo 水彩 50x70

 サントアマーロの湖辺に面し景色よく、ゴルフ18ホール以外に、ヨット、水泳、乗馬、テニスなどの部門を抱える豪華な総合クラブ。

 クラブ全体のための古めかしい大きなクラブハウスがある他に、各部門にもクラブハウスがあり、ゴルフのクラブハウスでのBacalhauのGomes de Sá 料理 は天下一品。たまにサンパウロ市内でGomes de Sá があると聞くと行くが、ここに 勝るところにお目にかかった事がない。

 この絵のクラブハウスはそのゴルフ専用のものである。ここも、アルジャオープン期間中に相互利用協定で利用した。日系人の会員では間部画伯や佐伯弁護士とその家族達、Cotia産組の理事出身で極短期間だけブラジルの商工大臣をやったFabio安田と会う事があった。

 最近はゴルフをやれる体調でないが、長男家族が此処をテニスに利用しているので、本部のクラブハウスの食事に招ばれる事があるが、Gomes de Sá は本部では食べられない。

 


Cananeia 水彩 30x40

 2003年、グループで2泊の写生旅行に、サンパウロから南西265キロの海岸小都市 Cananeiaに行った時のスケッチです。 Santos, São Vicente、 Praia Grande, Mongaguá, Itanhaém, Peruibe, Iguape、Cananeiaの順に海岸線に沿って西南下しパラナとの州境近くです。名実ともに細長い74キロのIlha compridaと大陸に挟まれた島、ブラジル最古のSão Vicenteに次ぐ市設立は1531年です。

 右奥に見える船橋のある細長い船は、水平線に横たわるIlha Compridaと手前Cananeiaを結ぶ自動車も運ぶフェリーで、Ilha Comprida が大西洋の荒波の防波堤の役を果たすので、海は穏やかで、日系人経営のホテルは2軒あり、大陸側との内海にはオイスターの養殖場があります。

 美術協会の海景展に出したら銀賞だったので審査が内心甘いと思って審査員に聞いたら、すべてが横線の中で4本の縦線があり、特に左端の照明灯とフェリーの船橋が水平線を突き貫いている構図が良いとの返事。ともあれ、Galleria Sunagoではブラジルの風景風物に添え文を付け地方色も加えて紹介したいので、楽書倶楽部にネット掲載をお願いしました。

 海岸都市特有の魚介類のゴッタ煮caldeiradaは美味で、リオから3時間の観光都市Búziosで平らげたそれを思い出した。

 


裸婦 アクリル画 40x30

 2013年に描いた裸婦です。この一年は歩行困難で行っておりませんが、以前は週に一回のデッサンにサンパウロ美術協会に行っておりました。毎回10人程集まり、料金は一人15レアル(4ドル一寸)でした。

 今日本ではモデルになる人がいなくて裸婦デッサン実施は難しいと聞きます。10分の休憩を挟んで20分ポーズを四回するのが普通で、時折5分ポーズ繰り返しの早描き(クロキー)があります。

 この絵は、20分ポーズのデッサンを参考に自宅で描き直したものです。決められた時間に息を飲むような気分でデッサンに集中するのも悪くありません。

 


日本人形 アクリル画 25x20s

 2013年の個展に描いたミニサイズ3点の一つ。

 買ってくれた人が何と、今50数歳になる長男が10歳位の頃、少年少女合唱団 に所属していた時の幼友達だった女性。

 綺麗な日本語を操り、メロメロとなりそうな美貌の持ち主だったのに、驚いた。

 


食用花 Capuchinha アクリル画 20x20

 これも個展用に描いたミニ版です。蔓が長く伸びる食用花で葉も茎もたべられます。

 7・8・9月頃、有機栽培食品の高級露店市で求められます。これを買ってくれた人は おばさん でした。

 


ポンポンダリアと無名君 アクリル画 20x20

 同じくミニ版です。

 無名の葉っぱは、イビラプエラ公園に隣接の苗育成所から4・5年まえ一枚失敬して増やしたものです。群生すると茶色の枯れ葉も目立たず一面が綺麗な趣になります。

 我が家のベランダを飾り、20階建て40戸のアパートの入り口一角にも群生させています。密集したら、別の一角にも移させようかと考えています。

 絵描きで同僚のおばさんがこの絵を買ってくれました。

↓「アパートの入り口に群生している無名君」

「楽書倶楽部のホームページ作成の石田さんが 名前はZebrinaであると調べられました。」

 


向日葵 アクリル画 50x40

 サンパウロから北方数十キロのAtibaiaへパークゴルフに行く友人から向日葵をもらった。

 Atibaiaは Cotia移民の花卉栽培業者が多くヨーロッパ輸出でも有名なだけに、頂いた向日葵は素晴らしく、何日かかけて描く間にも花の生気が衰える事がなかった。

   2011年、南フランスを長男運転のレンタカーで旅行し、向日葵のゴッホが住んだアルルの町や広大な向日葵農園、を思い出して描いたがゴッホのように主観的な味のある絵にはならず、相変わらず自然美尊重の客観的絵におわった。持ち前の感覚の限界というべきか。

 


巨木 Fugueira アクリル画 50x70 

 サンパウロのイビラプエーラ公園のRepublica do Libano側のportão(入口)7 から入って左のBosque de Leitura内に Figueira の巨木が3本ある。一番下側に水平に伸びる枝は重さに耐えられないほど太くて長く、そのため支えがしてあるが、絵には都合が悪いので、支柱を描くのは見送った。2015年の作。

 Figoはイチジクの果実でFigueiraはイチジクの木である。これほどの巨木ではないが、他の公園でも矢張り並外れて大柄のFigueiraを見るが、果実が付いているのを見た事がない。何方か説明してもらえないものだろうか。我々の食べるイチジクの木はもっと小ぶりだったと思う。

   Portão 7 から入ると、すぐの広場の中央に東南アジアのFigueiraが数本ある。やはり大柄で、しかも結実など考えられない異様な肢体である。主幹から何本もの太い枝が出て、その枝えだから枝自身を支える支幹が地面に伸びて潜り込み、吸水根を形成しているグロテスクな Figueiraで、異様で絵にならない。

 


Paineira (綿の木) アクリル画 40x50

 2015年の作。サンパウロ美術協会の日帰り写生バス旅行で描き、家で加筆仕上げしたものです。離れて見るとイッペーroxo と見間違えしそうな花です。2者の違いは、Paineiraは葉と共存し、イッペーは花が咲く時は葉を付けません。

 サンパウロ郊外にItúと言う町があり、その町の郊外にある Fazenda de Chocolate(チョコレート農場)です。

 Itúへ自動車で来る観光客を呼び込む構想で農場を改造して、チョコレート工場(見学+売店+喫茶店)、レストラン、乗馬、遊園地などがあります。

 


サンパウロのIrish Bar  水彩 22x30

 高級住宅地Jardim Paulistaのパンプローナ街とオスカールフレイレ街の角にAll Black と言う高級なIrish Barがある。その近所に住む帰国予定者からの注文で描いた。

 彼の住むアパートはBarの右側に並ぶ3棟の真ん中で、ベランダが克明に描いてある一棟だが、実はここには存在しないで、手前を横切る道にあり、このBarから100メーター程左側にあって、絵からはみ出ている。肝心のBarのアングルはこの絵のようにとらないと良くないので、アパートの位置を入れ替えた。

 この現場の空は右端にかすかに覗いていただけだったので、左半分の密集した建物を取り除いて空間を拡げて、閉鎖した雰囲気を取り除いた。

 帰国者には記念になると大変喜ばれた。

 


自画像 アクリル画 50x40

 絵描きは一度は自画像を描いて残すのが普通。自画像は鏡を見て描くものであるが、覗いてみると高齢化で余りにも醜いのにがっかり。

 2005年にパリーのレストランで撮ったのが良かったのを思い出して、それを 引き出しての写し自画像です。

 76歳当時です。

 


1958年のサンパウロ東部 水彩 22x31

 1958年、勤務していた東山商事の4階のベランダから、当時は遮る建物もなかったので、サンパウロ市の東部(低地)を眺める事が出来、描いた。主にイタリア移民の住居や小工場が多かったBras地区である。

 右近さんと言う戦後移民家族が、日本のマジックインクを導入、現地生産を開始、Tinta Mágicaとして売り出した頃で、アクセントを付ける線描きに試用した未熟な淡彩である。

 


アクリマソンの聾唖学校建設予定地 水彩 40x30

 1960年頃、サンパウロの画壇で有名だった日系の聖美会に応募入選した絵です。旧制中学時代のホビーのままの未熟な水彩です。自宅から近いアクリマソン公園の傍で、現在はこの空き地に聾唖学校があります。

 展覧会の折に、聖美会の名をブラジル中に名を売った水彩油彩両方で著名な高岡画伯が、僕の絵を批評して中央辺りのかなたを白ぽく残してあるのが、距離感を表しているので良いと言われた言葉を思い出します。

 この絵を最後に20年間80年台当初まで、彩管と縁を切り、脱サラに続く自営の確立に専念せざるを得ませんでした。

 


Nova Friburgoの柿園 水彩 22x31

 1958年の我々の新婚旅行先は、僕が草鞋を脱いだRioと家内が家族自由渡航で伯父の呼び寄せを受けたリオから2時間の高原都市Nova Friburgo周遊の一週間。旅行先が2〜3時間のバス旅行2泊程度が一般であった当時にしては贅沢な新婚旅行であった。

 この未熟な記念スケッチは伯父が戦前着伯早々購入した柿園で、日本移民としては柿の元祖である。とは言うものの、農業技師である彼はアマゾンの鐘紡移民の農業指導に北上出稼ぎ、柿園は家族に任せ、家族は在来の渋柿をアルコール処理の渋抜き糖化で市場性を図り生計の足しにしたと聞く。


Praia Grande 水彩 22x31

↓写真 現在のPraia Grande

 1957年の Praia Grande。Santos & São Vicenteno 2市に繋がって隣接する、名前どうりに大きな(長い)海岸。10キロ以上あろうか? 大西洋に直面するので、コパカバーナと同じく海水浴では要注意。       

   今では併載の写真どうり高層建築が密集した海岸都市。その発展変貌はリオのオリンピックで開発されたBarra地区の60数年前と今日の差に匹敵するだろう。当時は絵で見る通り、建物は一棟以外に何もなかった。

   勤務先のグループでバスを借り切って行った時にスケッチしたお粗末だが、古き時代の記念画。海岸地帯によく植えられる、葉が大きなアメンドエイラの幼木があったので描いたのだろう。地方によってはカスタニェイラとも言うそうで、アメンドと言いカスタニャと言い、ドングリのような実を想像させる名前だが、見たことはない。

 この木は大きくなると葉群が傘型を形成し、人々に憩いの影を提供する。冬になると大きな葉が紅葉し美しい。


Feira dos organicos em Ibirapuera アクリル画50x70

 2016年の今日、10月3日から開催の総領事館での6人展で展示される、今年の発表作品の一点です。

 Ibirapuera公園近く、かっては模型飛行機ファンが有線誘導で飛ばした円形の場所で、無線リモコンとなった当今は飼い犬の集会場ですが、毎週土曜日は有機農業者が集まる青天市場として賑わいます。

 テントが円形に沿って並ぶので、絵の構図が面白く構成され、描きました。発表作品にしては小サイズです。展覧会用の大サイズは行き先がなく、我が家での収蔵には窮屈になってきたからです。


Feira dos organicos em Ibirapuera 2 アクリル画50x70

 これも今年の総領事館展示の一点で、方向を反対にとらえた無農薬feira の姉妹版です。3人の人影を白抜きするには自然美尊重の己と葛藤するものもありました。

 


Festa em Galvão Bueno アクリル画 40x60

 今年7月の Galvão Bueno 街での七夕祭りです。これも総領事館での6人展への一点です。このFestaには数年前にも来ましたが、より見事な祭りになっていて、多くのブラジル人が楽しんでいました。


Festa em Praça Liberdade アクリル画 40x60

 Galvãoに繋がる Praça Liberdade での七夕祭りです。

 これも今年の総領事館展示での一点です。

 


肖像画 アクリル画 50x40

 総領事館展示は各自5点なので、長男の嫁に乞われて描いた肖像画を足しました。東京下町の育ちでテキパキしていて日本人にしては浅グロの方なので、童話絵本の「ちびくろサンボ」みたいと評したら、「ちびくろサンボ大好きだった」、との返事が返ってきました。

 JALの国際線のベテランだったので、人の心がよくわかり、活発でテニスでは全伯インターニッケイコローニアの中年クラスで連年トップ。

 料理が上手で、ワインをたしなみソムリエの資格をもっていますが、自分は直ぐ赤くなります。普段着の好みはひらひらした天衣無縫で、描きがたく、家内の肖像画の赤のスウェーターと取り換えて描きました。

 


肖像画 アクリル画 50x40

 私が所属するML(メイリング・リスト)”私たちの50年’の方からgalleria sunagoの懐古編を終わるにあたり、家内の肖像画が抜けていると指摘いただきました。                                   
 女房を公開するのに何かこだわりがあったので控えていたのですが、いずれ出来る私の遺族に残す意味でも良いと考え、galleria sunagoに家内の肖像画を参加させます。

 この家内の肖像画は2012年に描きました。 家でよく見かける家内の読書姿が好きで描いたのですが、総領事館での6人展に出したら、友人たちは褒めてくれましたが、家内と同じヴォランティアー奉仕グループの人から、これは和子さんでないとの批評を受けました。

 読書姿でしたから、表情が静かすぎて冷たく映ったのでしょう。本と支えている手を含めて描くべきだったかも知れません。


肖像画 アクリル画 50x40

 2012年の肖像画は、私は読書姿でよく描けたと思いましたが、総領事館での展示会で和子さんでないと言う人がいたので、2013年は明るい表情を描き展示しました。

 Tシャツの影に淡紫の隠し味を使いうまく表現できたと思っております。

 


「PLホール9番」  水彩  15x23

 ホームページやPCの問題解決、楽書倶楽部で世話になっている石田コンピューター教室から、こんな私の絵の映像があるとの連絡うけたので、回顧の galleria sunago の最後に追加します。

 PL Golf のクラブハウス、正しくはPLのパター練習場から見下ろした景色です。PLの売店で良く売れた水彩の一点で、コンペの景品や帰国者の記念に買って頂いたようです。


ベルティオーガ 水彩 30x40  

 

 同人誌の楽書倶楽部の石田さんがコンピュター教室を新装された折に差し上げた水彩を思い出し、写真を撮っての追加です。                         

 この水彩はグアルジャ側に渡るベルチオーガ側のフエリーの乗り場の右にある10軒程の魚市場を通り越した地点です。日帰りバスでの美術協会の写生会で描きました。

 ベルティオーガは南米大陸に位する海岸小都市です。海岸山脈を背にして、入り込んだ淡水混ざりの海峡をへだてて、直ぐ右前の鼻先にはグアルジャの島の東端、右側に隔ててサントス市のある島と相対しております(下の略地図をご覧ください)。週末や連休は避暑避寒の外来者や船で沖に出る釣人が集まります。

 町の商店街や公共施設はフェりー乗り降り場を囲んでいますが、大西洋に沿って東に自動車で20〜30分の白浜が続き、そこには高級マンションや多くのモダンな商店、レストランがSão Lourençoと呼称する大区画を形成し、市の財政は豊です。

 この日の写生会参加者の昼食は市の提供で良いレストランでした。

 

 


Ouro Preto  水彩 40x30

 ブラジルの古都である OURO PRETO には2回行きました。最初は長男が大学卒の三十年程前の家族5人で。2回目は2002年に美術協会での写生旅行。
 
 当時はPCはメールを覚えただけで、画像の保存を知らなかったし、描いた絵は個展でお嫁入りして、手元に残ったのは、この一点だけです。

 これはcheck-outの朝、泊まったPOUSADA(HOTEL)の前に立って、隣接の古い教会に顔を出すPOUSADAの名板の組み合わせが気に入って描き、家に帰ってから仕上げたものです。

 


Paratyの海岸にある教会 水彩 36x50

 

 Paratyはリオ州に所属しサンパウロとの州境に近いです。18世紀当初、金のポルトガルへの搬出港として栄えた町です。金を産出したOuro Preto から1600キロの山道を馬に曳かせ60日かかったと聞きます。

   このgalleria 10番目で披露した、Paratyの歴史保存地区に沿った川があります。この海への出口が、この教会の直ぐ右になります。最後に行った時は放水を沖に導く堤防が出来ていました。この絵はその堤防の先端から見取った風景です。


Paratyの古い家 水彩 36x50

 昔栄えた古都なので古い家が多くありますが、観光地なのでよく保存されています。

 金の積み出し港は後に、リオの港に御株をとられました。オーロプレットからリオへの行程が優先されたのです。このためParatyは衰退しましたが、ピンガ(サトウキビから作る火酒)製造で町の経済を維持し、現在では文化面で国際的にも色々イヴェントを開催する有名観光地の一つです。

 


海水が道に流れるparaty  水彩 36x50

 この絵は、絵と言うより自転車が主体となってイラスト風になったので、サインもしないでほってあったものですが、路上に海水が上がるのをお見せするため、披露します。

 Paratyの海岸側と中心街の歴史保存地区は地盤が低いので、上げ潮時には海水が道に上がってきます。黒犬がいる下をご覧ください。海水が通過する穴です。

   そのために道の両側は高く、中央が低く、石が敷き詰めてあります。10年ほど前に異常な高潮が来て中心地区の大きな教会内部まで1メートル以上の浸水を受けたことがあります。

 この町は金の搬出で栄えただけに小さい町にしては古い教会が大変多いです。Ouro Pretoはもっと広い古都だけに教会はもっと多いですが。


サントスのポルシャの島 水彩  30x40

 

 下の地図をご覧ください。ついサントスと言いがちですが、正しくはサンヴィセンテにある陸続きのIlha de Porchá(ポルシャ島)です。2014年の美術協会の写生旅行でのスケッチです。高級マンションや別荘、それにナイトクラブなどある別格地です。大西洋を見下ろすのに絶好の場所で、日本からの来訪者のサントス案内には此処をルートに選ぶのが常でした。このポルシャの位置でサントスとサンヴィセンテが島を二分しています。

 サントスは南米一の港町として発展し、サンヴィセンテは付属的存在と映りますが、歴史的にはブラジル最古の2番目の町です。最初のブラジル発見が1500年のバイーア。その次が1502年のサンヴィセンテ上陸です。

 その地点は地図の吊り橋に近い海面で、記念塔が立っております。ポルシャ島と半島に囲まれているので海が穏やかで、ポルトガルからの探検船団が停泊するのに好都合だったのでしょう。

 添付の地図にはサントスのある島と書きましたが、正式にはサンヴィセンテ島となっています。


東山農場  水彩  16x22

 

 サンパウロの北100キロのCampinas郊外の東山農場です。2000年頃の文協美術館の写生会で描きました。三菱の岩崎家の所有であった農場ですが、現在は分家の岩崎透氏の私有農場です。

 私は戦後の本社的存在で、東京駅真ん前にあった建て替え前の旧丸ビルの東山企業に51年に就職し、52年の社長君塚さんのブラジル大使転出赴任に私設秘書として同行しリオに勤務し、のちサンパウロのCasa東山(三菱商事進出前の同社代理店時代)に企業移民としてのこりました。

 当時の農場は今の2倍の1000数百アルケールもあり馬に乗って牛の大群を追って遊んだ頃を懐かしく思い起こします。東山銀行、Casa東山、東山電線、東山信託、東山倉庫、東山不動産のサンパウロの事業体すべてがなくなり、東キリンで知られた日本酒の東山食品の最後の株も日本から進出のキリンに譲渡し、我が家の里の母屋がつぶれて行く思いです。

 絵にある建物は農場の本部で、先代の故岩崎寛弥さん(私より1年若かった)來伯の折など、私の退職後も誘われてこの本部のゲストルームに社員時代以来何回も寝泊りし、東キリンを飲み、テニスなどに興じました。右奥の大木は樹齢300年と言われるJatobáです。この傍に岩崎家のブラジル総支配人であった山本喜誉司さんが戦後作った日本邸ガあります。

 山本さんは芥川龍之介の従兄で、同性愛と評されるほど親しく、ブラジルに呼んでおけば死を避けられたと慨嘆されたと聞きます。北白川の宮様の縁戚とも聞き及びます。

 東山農事に入社し支那に派遣され支那綿の改良の功労者とも聞いております。文協を設立し勝ち組負け組の融和のスタート機関にすべく尽力され、東山の社務を疎かにしたと岩崎家から非難を受けたと聞きます。

 


Fortalezaの海岸 水彩 30x40

 

 脱サラでささやかな工場を始め、地道に経営して20年目ごろに好調を迎え、昔のホビーの絵筆をとり戻した頃の84年の水彩です。

 非必需品が事実上禁止されていた頃に、国産で良いギフト製品が我が社で揃い始めたので市場拡大に東北のsalvadorに出張し、そのあと奥地のJuazeiro do Norteに一泊後、Ceara州のfortalezaで泊まったホテルからの風景です。

 この頃Sol Nascente証券は絶好調で、支店開設に来ていた東京外語学友で現在ブラジル書道の第一人者、当時社長の若松君に遭遇し、先発の開設準備で派遣の社員が運転する車に乗せてもらった記憶があります。未熟なスケッチの駄作ですが、地方色の紹介のためです。

 


ブラジル王政時代の溶鉱炉 水彩 30x40

 

  サンパウロの西100キロ当たりにSorocaba市があり、その近郊にイペロと言う小さい町があります。

 そのイペロに王政時代の1810年頃に作られたイパネマと言う製鉄所と兵器工場の遺蹟があり、文協美術館の写生旅行でいきました。この絵はその溶鉱炉を描いたものです。

 1864年から1870年まで続いたブラジルとパラグアイとの南米最大の戦争では、このイパネマ工場で作られた大砲や兵器が重要な役割を果たしたと聞きますが、この溶鉱炉の大きさでTメートルをこす大砲の鉄一塊ができたのでしょうかね?

   ちなみに、この戦争でパラグアイは男が激減し、一夫多妻となり、戦後のパラグアイ移民が入った頃までその傾向が続いていたそうです。パラグアイは美人が多いと聞きます。羨ましい話です。

 

 


Pedra de bau (つずら岩山、長持岩山)  水彩  27x36

 

  サンパウロから190キロの避暑避寒で有名な高原観光都市 Campos do Jordãoの山上にある州立音楽堂(1000名収容)から眺められる岩山の風景です。音楽堂の近くに州統領の公式バカンスハウスがあり、毎年7月一杯開催される音楽祭のオープニングには、たまにヘリで来る州統領の臨席があります。普段は観光客のルートの一つで、来館者は分厚いフエルトのスリパーで滑りながら案内をうけます。           

 つずら岩山は海抜1950メーターで、30キロ程離れたSão Bento de Sapucaiに位し、登山者はこの町から垂直400メーターの岩壁に埋めてある鉄梯子を上るスリルを味わいます。眺めは地元のSão BentoからよりもCamposでの限られた高台からが抜群です。

   戦前からCamposは結核療養地として有名で、義父も老人結核を患い、世話になった療養所の食事が嫌で、私がセカンドハウスを買って義母と住んでもらい、20年程よく往復をした、愛着のある町で、家を売った後も、たまに家内とホテル滞在に行き、今年も二泊した町です。

 水が綺麗なので、日本人がニジマスの養殖に成功し、この町の名物になっています。

 


Ipê amarelo 水彩  40x30

 サンパウロから南西50キロ程の地点にSuzano市がありその郊外にIpêlandiaと称する 部落があり、そこに日系社会が運営する援護協会の施設の一つイッペーランディア 老人ホームがある。

 イッペーを描こうと思って車を飛ばしたが、盛りをすぎていたので部落のバス停に満開のイッペーを見つけて描いた。満開一色の花の木を主体に描くのはジャカランダでも経験したが、変化がつけ難いせいか、難しい。 2000年頃の駄作。

 

 


聖市のサンベント修道院 水彩 36x50

 2001年デッサンの練習に修道院の入り口に立つサンベントの銅像を現場で描きました。サンパウロ市内中心にある同名広場にあり、ここの塔にある時計はブラジルで一番正しいとの定評で、TVが普及してなかった50年代前半の独身時代に下宿のラジオでここの時報を聞いたのを思い出します。

 大きな建物で神学校(大学、高校)を抱え、聖職者たちの男性コーラスによるグレゴリアンは古い曲だけに単調ですが其のハーモニーは大変有名です。修道僧たちによって作られるパンやケーキの週末販売も有名です。

 尚、サンベントはローマ帝国時代に隠遁生活で苦行した伝説的修道僧の聖人称号とあります。入って右側にある祈祷所付近のアーチや柱は、何故かスペインのコルドバ で見た聖堂のアラブ様式を思わせます。

   


Sorocabaでの釣り堀 水彩 30x40

 Sorocabaはサンパウロから西へ数十キロの地点。大衆向けの葡萄酒の産地と知られるし、また artichoke(alcachofra)の生産地として知られる。

 2004年、文協美術館の写生会でこの地の釣り堀へ行ってのスケッチ。2004年。 回顧展を一段落した積りでしたが、地方色の紹介と思って駄作を掘り出しました。

 今年はこれで最後の最後となりました。


Ibirapuera公園のIpe roxo 水彩 29x35 2017年作

 

 


Aclimação公園 水彩 30x40 2017年作

2018年初めころ、人文研所長だった故宮尾さんの遺品

絵画コレクション展示会に協力出品して売れた絵です。

買われた方は、絵画コレクションマニアで、私の絵では

2回目の購入でした。最初の購入は2013年の私の個展で

奇岩の山Agulhas Negras(40x60)でした。


中国人の正月 アクリル画 40x60 2017年作

Liberdade で毎年2月頃, 旧暦なのか年によって異なる

日取りで土、日に派手に登場する中国人のfestaです。

中国系の青年会議所グループの主催とか、聞きます。

私の好みの画材ではないですが、Liberdadeのシリーズ

として、取り入れました。


Chuva de ouro アクリル画 40x50

サンパウロでは年末年始に満開を見かけるマメ科の割

に背丈がある木です。自宅の近所に一本あり、時期が

来ると気になる存在となって長年です。

Agulhas Negras Aclimaçãoを買われたマニアの方で

ない別のマニアで私の友人でもある人が、5枚目の買い上げ

をしてくれました。今年2018年の11月末の総領事館での

マリンクラブ(東京海上火災後援)展示会ででした。


Ponte Metalico de Ibirapuera アクリル画  40x60

ピンクのイッぺーと黄色いイッぺーは開花期が少しずれるのが普通ですが、

偶に共存するのが、この絵です。

この絵もマリンクラブ展示会に出品したものです。

身なりのいい老婦人がお気に入りでしたが、同行の商人風口調の息子に

遮られました。


Jacarandaのイビラプエーラ公園 アクリル画 50x70

サンパウロでは、9月末から11月初めにかけ咲く紫色の花で

魅惑させてくれ、かなりの高木になります。

このJacarandaもマリンクラブ展示会に出品しました。

マリンクラブは会場を総領事館に移して17年目で、それ以前は

東京海上の旧本館で23回展示会をしました。

日本の駐在員が多かったころ、愛好者が集まった、

ソニー、富士フイルム、古河電線、日本人学校、東京海上、

ヤンマー、Café Iguaçu, 総領事(赤坂さん)や副領事も在籍したグループ

ですが、現在はブラジル永住者で占められており、東京海上

の食堂に土曜日午後、月2回集まって描いております。

 


回顧展をご覧いただきありがとうございました。

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