通信欄

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ニュース、写真、感想、批評、随筆、短歌、俳句等、この中から次号の

楽書倶楽部小冊子に転載することもあります。


 2017年2月 浅村 龍彦

 人間の人生とは不思議なものだ。去年の2月にUBS(Unidade Basica de Saude-救護センター)でボランテア活動の中に太極拳の抱樹瞑想を説明、そして道教の真髄「陰、陽」説明に折り紙すらやったことがないのになぜかしら「折り鶴」を取り入れた。最初は古カレンダーの紙を使い、その後日本輸入の専用紙、または大きな折り鶴は大手文房具屋でColor Set 色紙を真四角に切り使っている。

 去年終わりにSantaCatarina州のChapecoenseサッカーチームの飛行機事故はまだ記憶に新しい。当時ニュースに2千羽の折り鶴が競技場に寄付されたと流された。その後ChapecoenseとPalmeirasチームが親善試合を行ったとき、5千羽の折鶴が競技場に寄付され、意味は「愛と平和」と報じられた。

 以後私はブラジル人(日系、非日系)たちに、そして集まりにTaiChiChuan、Taoismoの言葉の意味、それについての漢字由来、象形文字、会意文字を習字、図で作成、 説明を行っている。そして締め括りは必ず折り鶴。インターネットで調べると広島原爆博物館の情報を得た。12歳の若い命を被爆で召された少女。もっと生きたいと折り鶴を最後まで折り続けた彼女、涙がぽろぽろと流れた。以下紹介いたします。

 佐々木貞子さん(12歳)は2歳の時に被爆し6年生の秋に突然白血病を発症しました。 病床で「鶴を千羽折ったら願いが叶う」という言い伝えを聞いて鶴を折りつづけましたが、8ヶ月のちに亡くなってしまいました。  

「以前のように運動会で力いっぱい走りたい」。そう願いを込め、病院で出された薬の紙やあめ玉の包み紙で鶴を折り続けた。彼女は自分の治療代のせいで家族が貧しいことを分かっていたという。1000羽を超える折り鶴を折っていました。入院から8カ月後に息を引き取った。

 病床の禎子さんも家族に、自分の激しい痛みや恐怖を気づかせないよう、最期まで病床で折り続けたという。 その短い一生と折り鶴の話は絵本で取り上げられるなどして広く知られるようになった。

  これをきっかけに、平和公園内に「原爆の子の像」がつくられました。その後この話は世界に広がり、今も「原爆の子の像」には多くの折り鶴が寄せられています。  

Orizuru

Senbazuru no Museu da Paz em Hiroshima

Senbazuru – mil Orizuru´s 

Orizuru: ori = dobradura (de papel),

Zuru ou tsuru = grou, ave similar à cegonha

Significado : Amor e Paz;

A menina Sadako Sasaki (12anos) foi exposta à radiação da bomba atômica de Hiroshima quando tinha 2 anos e no 6º. ano do ensino fundamental surgiram primeiros sintomas da leucemia. Na sua enfermidade tomou conhecimento de que “dobrando mil Orizuru´s o desejo seria atendido” e então começou a dobrar um atrás de outro.

tenho muita vontade de correr, correr com toda força como fazia antes no pátio da escola- foi o desejo que não poderia mais ser satisfeito. Ao saber o significado dos mil Orizuru´s(senbazuru), esperançosa, ela fez muitas e muitas dobraduras com cada papel que conseguia arranjar, desde bulas de remédios até mesmo de balas. Sabia da existência de papéis para fins Origami, mas pela dificuldade financeira da sua família causada pelo seu tratamento, ela nunca pediu. Fazia esforço para não demonstrar pânico pelo estado avançado da doença nem as dores intensas que a atacavam constantemente. Sabia que estava com dias contados e cada Orizuru que conseguia terminar era feita com todo cuidado e carinho em cada etapa, cada dobradura. À medida que a leucemia avançava, ficava cada vez mais difícil efetuar a última etapa, a de dar o sopro (da vida) no Orizuru. Com grande esforço foi terminando um a um até o seu último dia (no 8º. mês de internação), rezando para que cada Orizuru levasse Amor e Paz para todo o Mundo, para que nunca mais aconteça a atrocidade da guerra.
Ela teve o fim da sua vida na Terra cercada de milhares de Orizuru´s e a garota que não pôde correr nos pátios da escola, voou. Voou junto com os Orizuru´s sob os olhares dos familiares que tanto se esforçaram para a sua melhora. Agora está nos braços do Grande Criador cercada de Amor e Paz de todo o Mundo.

 

A sua vida tão curta e os seus Sembazuru´s foram relatados no livro do seu irmão dedicada à ela e posteriormente, em muitos Ehon´s (livros em desenho).

No Parque da Paz em Hiroshima foi erigida “estátua da filha da bomba atômica” e do mundo todo não cessam de chegar Orizuru´s, enviados por aqueles que rezam pela menina que tão cedo teve que deixar este mundo e que tanto rezou pela Paz.

Nota: no Japão tem um ditado que diz “grou vive mil anos e a tartariga, 10 mil” donde criou-se o hábito em fazer mil Orizuru´s para entregar à pessoa enferma demonstrando os votos de recuperação.

  


山登り (2008年)     スザノ 堀石 明雄 (86才)

 毎年七月の第一日曜日は石鎚山の山登りだ。 僕は友人の車に便乗して、朝七時家を出た。 スザノから石鎚山までは約三十五キロある。 車はパウメ−ラからも行けるが、僕達はモジのジンジャペラ廻りを選んだ。 舗装路よく途中ピンズラマ植民地があり、この辺りも今日に至って村は寂れている。 舗装路を抜けると土道に入る。 

 デコボコと廻りくねった道はあきる程あり貧しき民家が林の切間に散在している。 車はカチンガ町の手前から左折してヴィラ街を抜けると再び泥道で如何にも山奥に来た感じだ。 雑木林の道には小川があるが、橋はなくそのまま渡れる。 五キロ程走ると視野が広がり此々から石鎚山の入口まで約一キロで早朝に着いた。 車が道の両側に停めてある。 

 車を降りて山道に入る。 山の標高は五百米余りで西側半分は岩石で東側は雑木林、登山は此の雑木林方から登るが道は踏み崩されて急勾配にはロ−プが張れてある。 勾配は六十度から場所によって八十度もある。 健康体でないと登れない。 途中から引き返す人も見れる。一本道を列を作って登るので、頂上までは約一時間かかる。 

 八十三才の私はこの山の高齢者登山の記録者かも知れない。 二年前の八十才の時の登山では、八十才以上の友人が三人いたが今回は私一人、あとは非日系人が大半で日系社会の衰えと共に危険なことをしなくなったようだ。 頂上は晴れた日にはサントス港が見える。 冬晴れの頂上は空気は特別で平地とは違った味わいがあり、これが登山への人の意欲を駆り立てるようだ。 

 頂上では山の神事が終わると吾を先にと下山が始まる。 下山は悪い足場さえ注意すれば半時間ばかりで下りる。 車は次ぎの場所へと飛ばす。 会場はカチンガの町を抜けスザノ管内にのびた舗装路に乗り変電所に着く。 此々を右折して約二キロ宇野耕地に入る。

 このあたりで、しばらく山登までの歴史にふれて見たい。 

 宇野耕地はスザノ郡で一番奥のキント敷島で日本人が六十年代に入植したところで当時は不便なところで、しかしその頃バタタ栽培で栄えた。 遠方に見えた山は日本の石鎚山に似ていることから入植者宇野氏、愛媛県人中矢氏等有志によって開山が行われて石鎚山と命名された。

 これは移民の持つ郷愁による行事でしょうが、すでに五十三年目を迎えている半世紀を超えて益々盛んになって来た。 行事は山への信仰によるものである。二世、三世の世代になった今日同じことが出来るのも感心される。 開山者の中で唯一の生存者が私の友人中矢常吉氏、同年の今は八十六才、俳句カラオケなど元気の毎日を送っている。

 此々で再び行事にかえると、山から帰った人々は宇野耕地内[立派な鳥居と小規模な社がある]で神事が一般人に行われ、福博村会からは太鼓が披露され、最後には待望の餅まきで、高いヤグラからまかれる餅は約三俵とか吾れ先に拾い競う面白いものだった。その後は耕地の下側のバラコンに移り八百人近い登山客は空腹を満たすのだ。 

 バラコンは幅八米、長さ三十米で料理、飲み物が十分に用意されている。これはボランチアで係人は大変なことである。

 私達は食事後、関係者と懇談し午後四時半頃スザノ‐パウメ−ラ廻りで帰路に着いた。

    冬晴れや 視野一望に 石鎚山

    二千十一年 七月二十日  

 

 


外来語は日本語か?          浅村 龍彦

その一、

こちら伯国に住んでいる我々日系人は、ともするとポルトガル語単語を日本語会話に入れてしまう。結果はとんでもないことがよく起こる。たとえば、ある一昔前の話。地方に住んでいたとき、幼き妹、愛称ナナ(5歳くらいだったと記憶している)が隣のブラジル人の小母さんの所によく遊びに行っていた。ある日、妹が泣きながらRaquel(ラケ

ウ・仮名)小母さんを訪ねた。彼女曰く、「ナナ、どうしたの。なぜ泣いているの、何が起こったの」「ミミ(子猫)が死んだの」「まあ、死んだの?かわいそうに!でもどうして死んじゃったのかしら?」「うん、きっとを食べて死んだの」ここまでは別におかしい話ではない。しかし、最後の妹が言ったことをポ語にすると「Porque tomou do cu

morreu」(翻訳、故意に控えました)Raquel 小母さん苦笑するやら、一緒に悲しむやら、大困りしたとのこと。


それに似た笑い話が、ある日本週刊誌に載っていた:

私の親 

ある小学校の英語の授業で、教師が児童に質問していた。
「マイ ファーザー イズ ア ドクター。この意味、分かる人?はい、太郎くん」
「私の父は医者です」
「はい、正解です。このようにご両親のことを、英語で説明してください。はい、ひろみさん」
「マイ マザー イズ マイ マザー」
「ん?私の母は私の母って?」
「私のお母さんは、ワガママです」
「ハハハ、面白いけど、なぞなぞはダメだぞ〜。次、たけしくんどうぞ」
「マイ ファーザー イズ スモーキング」(*)
「煙草を吸うお父さんなんだね?」
「違います。僕の父は横綱です」

(*)My father is Sumo
・・・・king. (相撲の王様)

その二、

ずいぶん前の話であるが、国内観光バスで一世の経験豊富な男性ガイドさんが、時間埋めに話した面白い話があった。第二次大戦中、外来語は使うなという指示が政府から出たそうな。ある小学校で先生がその旨伝えると、生徒の一人が、では「ラッパ」は何と言うのかとの質問に「金属製真鍮曲がりくだ音声発生器」と答えたそう

な。別の生徒が「マッチ」は?「箱型軸取り出し横側当てこすり火花発生器」。ウーム。これも長ったらしいが確か日本語のみである。続いて「タバコ」は?先生曰く、「煙草」と書いてこれは日本語であるとの答え。そうかケムリ草ねー、うまい表現、納得。

5年前当たりのことである。会話中「コンピューター」を日本語だと言いきった若き在伯出張者がいた。まったくなげかわしいことである。では電脳は何だろう。電子頭脳は何語だろう。私は6歳の時、姉弟たちと両親に伯国(ブラジル)移住した準二世で日本語学歴はないが両親に教わり少々読める程度だが、日本語については読書も好きだし、低い鼻をうごめかし誇りとしている。

「国家の品格」著者の藤原正彦氏が「日本人が日本語を大切にしなかったら誰がする」!うれしかった、立派な人がいる。英語本What on Earth happened? (日本語題名―137億年の物語)を翻訳した野中香方子女史は英語の翻訳であるが外来語を最小限に抑えている。賞賛!最近読んだ文書の俵屋宗達筆「蓮池水禽

図」についての解説を書いた朝吹真理子女史、「旬の菜滋記」の高橋治氏、ご立派!日本語を大切にしている方たちがいる!なぜ新聞、特に雑誌類は外来語を使い放題にするのでしょうか!!  

 

その三、

ある辞書に「かんらん(甘藍)」を調べたらキャベツの別名だと記されていた。反対でしょぅ。キャベツこそ甘藍の別名でしょう。死語とは使わないから!その他幾数の死語、なぜ立派な日本語単語を殺してしまうのでしょうか。

 数十年前ある日本青年がブラジル航空便でサンパウロ市へ向かっていた。伯人乗務員に「トイレ?」と問い合わせた。「I beg your pardon」と「分かりません」の答え。「トイレ、トイレ」と厳しく問い詰める。同じ答え。隣席の日系ブラジル人が「toilette」と手伝う。すぐに乗務員は「this side please」と指差して案内する。青年は「こいつ、英語も分からんのか」!なんとも言いようがない。ちなみに、最近は「レストルーム」というそうだ。「アナカン」も似た事例、日本だけで知る人ぞ知る。なぜならUNACCOMPANIED BAGGAGEまたはCHILDを省略したものだから。

 雑誌の外来語氾濫は言語道断である。それがカタカナで書いてあるから苦労する。何を意味するのかさっぱり分からない。小生、日本で電車に乗った。ある広告に「バイリンガル」と書いてあった。何だろう。淋病バイ菌かな?しかし 書いてあることと内容が会わない。分からないまま帰った。翌日、別の電車で同じ文句が目に入った。何気なく声を出して読んだ!成功!耳はちゃんとbailingalと理解させてくれた。なーんだ、そんなことか。つまり、bilingue =2ヶ国語を話すこと、英語ではBilingual.

 インターネット普及現在、小生の意見として外来語はアルファベット(原語)で書くべきものだと思っている。そしてカッコ内にカタカナで書けばよいではないかな。つまり「Toilette(トイレット,トイレ)」。そうすれば、かの青年はすぐ問題なくお手洗いへ行けたであろうかと思われる。ブラジルでは現在でもいたるところにToaleteと案内されている。Global(グローバル、世界的規模)化されている現在、日本も一流世界人になるためもう一息頑張ってほしいもの。

最後に、カタカナ使用は擬音語のドキドキ、ザーザーなどで十分だと思っている。

その四、

 かれこれ10年前。ある日本女性作家と縁があって外来語について話すことが出来た。ウオーキングは日本語で何というのかと聞いたら彼女は「それは外国からきたからそのままで良いの」とつっけんどんに答えてくれた。何か失礼なことでも聞いたのかな?「では電気は?自動車は?」と引き続き聞こうかと思ったが硬い表情だったのでやめた。

 後日「歩こう会」の会長さんと出会ったので、同じ質問したら「徒歩じゃないの」。なんかイメージがつかない。ウオーキング、つまりWalking直訳すれば「歩行、歩きながら」。辞書では「健康維持・体力増強のための歩行運動」とも書いてあった、だが長すぎる。ブラジルではCaminhadaという。辞書には「歩くこと、長い道のり」とある。日本にいる会社の元上司に問い合わせると、「早歩き」と教えてくれた。なるほど!これならいい!なぜならば散歩、散策、などはぶらぶら歩くので、ウオーキング、つまり早歩きは早足で歩き、ある程度汗を流さなければ目的を達せないのだから。

 

 


サントスの港1 - 砂古友久さん 楽書倶楽部広場より

 

 

 移民100年祭に、絵画蒐集で著名なツニブラ旅行の赤川社長が神戸美術館に、間部画伯その他約60点を寄贈され、3か月間展示会開催、同館収蔵になっております。

 其の中の一点が、この絵の幅1メートルの姉妹画で、同じ背景、但し黒人なしの3隻だけをもっとバッチリとらえた絵でした。

 サントスに通勤するグアルジャ側の小舟発着場で、笠戸丸係留のM番倉庫の正面対岸です。戦後の移民船もKLMに着岸したが、あの倉庫はもうありません。


サントスの港2 - 砂古友久さん

 

 前に掲載の、通勤小舟発着所をもう一枚描きました。これはグアルジャー側の背景を右半分に取り入れたものです。

 移民100年祭を前にして2006・7年ころジャバクアラからバスで何回も日帰りで取材に下りました。港の入口にあるグアルジャーに車も運ぶ大型フェリー発着場のあるPonta da Praia行きに乗り、援協の厚生ホーム辺りで下車し、ホームの裏2/300メートルの発着所から小舟に乗ります。20人近く乗せて頻繁に出発します。

 暗くて淀んだ潮の臭いのする、トラック運送道路下の水路を幾つもくぐってMとN番倉庫の間から、停泊貨物船の大きなお尻を見上げながら海に出ます。10分でグアルジャに到着。

 改札口が小人数の小舟の往来に合わせて開閉するので、スケッチが出来ないのは勿論、桟橋でモタモタ出来ません。其の間、後ろ向きや横向きに歩きながらカメラのシャッターを切るのです。30艘近い小舟が重なりあって無造作に係留されています。其の重なりを整理削除して組み合わせし直し、描く構図を作りあげます。天候や時間による光線の問題もあり、何回も行きました。

 サントス側では料金なしで乗船、グアルジャー側でサントスへ帰る便に乗る時点で90センターヴォス払いました。

 同額をグアルージャ―で払ってD番倉庫辺りの税関広場と斜めに結ぶ、車は運ばない小型フェリー往復も好奇心で試乗しました。両方にタダ同然で乗ると、有料の港内観光帆舟並みの行程が回れます。

 サントス側の発着点には旧市街の市場があり一寸した商店街が続き、マーマーのポルキロレストランもありますが、子供のコソ泥やスリが多いと聞きます。 其の辺りにパケタ―と言う墓地があり、笠戸丸前に着伯した通訳5人男の一人、峯さんのお墓が保存されていると新聞で読みました。

 


サントスの港3 - 砂古友久さん

 

 サントスは大陸に囲まれ、橋で繋がった島です。同じく別の橋でつながったグアルジャーの島がサントスの島を大西洋から隔てており、 サントス港への防波堤の役割を果たしています。 この絵も移民100年祭に向けて描いたものです。

 白い要塞のあるグアルジャーを対岸とした、笠戸丸も通過したサントス港の入口に相当する、Ponta da Praia です。この絵の奥300メートル辺りにグアルジャーへの車ごと運ぶフェリー発着点があり、絵より可成り手前には水族館があります。

 10年ほど前に文協美術館友の会グループで此処へ写生旅行をしました。昔はここの広い敷地に2階建ての大きなJangadeiroと称した高級レストランがあり、ワイングラスに皮むきの薄塩小エビで飾ったコクテルが珍しく最高でした。

 雰囲気最高で何を注文しても全て味が良かったので、今は50台半ばの息子たちにも子供時代を思い出す語り草となっております。

 幅1メーターの売れ難い絵で, グアルジャーの小舟2点に較べると味も薄いですが、3年前の個展で売れました。この絵の奥から手前に向かって反対に描いた水彩スケッチも、絵画が専門であった今は造形美術の大家の夫人に買って頂きました。

 夫人達はいずれも2世の初老の方で、其の昔の思い出の場所だったのでしょう。今と違って昔の小旅行はサントス位でしたから。

 当時、新婚旅行はセーラネグラが大半で、サントスに行った同僚もいました。今は外国。隔世の感です。

 


サントスー大建造物の廃墟- 砂古友久さん

↓現在のペレー市立記念館(写真)

 現在サントスの観光局となっている旧鉄道駅舎の真ん前に、四つの道路に囲まれた一画を占める、ペレー市立記念館がある。記念館の側面は港の@番倉庫にも面している。100数十年以上前に建てられた大建造物の廃墟を、外面は往時のまま復興し、内装は近代化し、出来上がったのは2・3年前らしいのを昨年確認して来た(写真参考)。

 廃墟利用のペレー記念館設立計画は以前からあり、其の手始めの十年程まえに、廃墟を整理し始めた頃、文協美術館友の会で写生グループを引率した事がある。

 上の絵の幅1メートルの作品は、其の折のスケッチとその後戻って撮った写真を基にしたものである。

 記念館はサントスのバスターミナル Valongoに近く、この地区をValongo と言う。Valongoは奴隷市場の意味らしく、逃亡奴隷をかくまったので有名な教会がサントス旧駅舎に隣接する。リオの古い地図にも地名Valongoがあると何かで読んだ。

展覧会向けに描いた絵は大きくて売れないで、アパートの場所を取る。ペレー記念館がこの絵の寄贈を受けないかな?と考えているが、OKが来ても額付きでは自家用車には大きすぎ、額無しでは受け取らないだろう…、 こんな身の周り整理を考える齢になった。

絵にはSantosFと São PauloFのカミーザを着た子供二人を描いてあるのだが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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